なぜ山や森にいくの?と聞かれます。
生きていく上での愉しみや学びがあって
忘れてはならないことがあるからです。
幼いころ、近隣に残る自然の中で時間に追われることなく気ままに遊びました。
花を摘み、木登りし、
よさげな枝にロープをかけブランコにしたり、
鶏に餌をやるため、コオロギをつかまえたり、
風が穏やかな日は干し草で囲って秘密基地にみたてたり。
あのころから四季は何周めぐったでしょう。
いろいろなことを経験しました。
踊りだしたくなるような喜びもあれば、
一歩も動けないようなことも味わいました。
では人が亡くなることが最大の哀しい経験だったか?
私にとっては哀しみだけではなかったと思います。
もうその人に会えない、
声を聴くことができない、
触れられない、
というのはたしかに言葉にならないほどの
深い喪失感ではありますが、
「私たちは自然の一部」であることを
幼いころから小さな生き物(動物も植物も)を通じて
無意識に感じていたので、土から生まれ土に還り
循環することが私にとっての死生観のひとつなのです。
このたび湯殿山をお参りし、
五体の即身仏が祀られているお寺を巡りました。
・海向寺 忠海上人、円明海上人
・本明寺 本明海上人
・大日坊 真如海上人
・注連寺 鉄門海上人
生きたまま自らの意志で土中入定し仏になられた
「即身仏」に手を合わせ、
当時の人々の暮らしや自然とのかかわり合いに思いを馳せ、どのような地が腐敗せずに即身仏となるに適していたのかを感じとる旅でした。
どうしても仕事がら「土」から切り離せない私ではありますが、私たち生きものすべてにとって「健やかな土」と営みは切り離せないのです。
人々を思いやる愛が根底にあるからこそ、
厳しい行(1000日もの五穀絶ちや木食修行で体内の脂肪や水分を極限まで絞り、土中入定までの準備をする)を長い年月をかけて継続できたのではないでしょうか。
土中入定後お世話をする人々の敬愛や感謝もどんなに深いものだったか…と思います。
現代は自然をコントロールできると錯覚しがちで、
こんなに自分を犠牲にしてまで…と理解に苦しむかもしれませんが、当時はコントロールしようという発想はなかった。
なかったから導かれたあり方だったのでしょう。
本質的なことを知ることで、
今何をすべきかに自然と導かれます。
私は、土の微生物の息の根を止めてしまうなどはとても責任持てないのでしません。
そして微力でも土の力をとりもどせるアクションをします。
「西の伊勢、東の湯殿」と言われるそうです。
素朴であたたかなしあわせや、本当の豊かさや優しさを感じられるような世の中が拡がりますように。
最後に。
谷から雲が生まれるのがあまりに美しくて感動…
お盆はお休みいただきましたが、25日(日)は
青山ファーマーズマーケットに出店します。
お待ちしております!