「聴く」そして「循環」 について

昨日は柑橘の選別をして、発送や配達の準備など済ませて、係の集まりがあり飯能の学園へ向かいました。

雨も激しく、昨年の西日本豪雨を思い出したりしながらの道中でした。

 

私は農業や林業に直接携わるものではありませんが、
あまりに軽んじている社会と、何十年も前から守り伝えるべきものは何たるかが散りばめられた現場、、
このふたつの大きな溝に違和感を抱いています。

 

マーケットでの友人やお客さま、
リース教室での生徒さん、
様々な立場の方々からの熱量あるお話に
なるべく耳を傾けたいと思っています。

 

たぶん幼いころから、「聴く」ということが日常的で、
それは意見を述べるのが苦手だったから、人前で話すことから逃げていて自然と聴く側にいたからで、

それは消極的でいいことではないと
当時は思っていました。

でも今は聴くことが、100%受け身のままとは限らないとわかります。

 

昨日の中学校長のおはなしで、
話し合いができる環境を作り上げることができたら、
聴いてもらえる安心を感じて話せるようになるし、

話さなくてもいい聴くだけでもよいし、
いつか自分の思いをためてためて溢れるときがくる。
という話に心つかまれました。

 

子どものころの環境のせいにしたり、日本の教育のあり方を海外と比べて批判したり、ではなくて、

せっかく生まれてこれたのだから、1日を味わってかみしめてたのしく過ごせるようになれればいいと思います。

 

私はこの体とさよならするとき、つまり死ぬとき、どうありたいか、って考えることがよくありました。

どんな風に死にたいか、は、今をどう生きたいか、につながるので逃げずに考えることができます。

私は土に還れるような生き方をしたい、と思っていて、
お仕事もなるべく複雑じゃない仕組みで、ゴミになるようなことはしたくないと思います。

 

しなくてもよい争いや複雑な議論とか、どうしたら穏やかに話し合えるのかな…

同じ方向を向いていたはず、
同じ船に乗っていたはずなのに、
己の我に負けて大切なものを見失うのはなんでかな…
と自分への戒めも含めて悲しくなることもゼロではありません。

でもそんな小さな自分をゆるせるようになれてきたかも…
 
そして、人生の先輩方が心の豊かさを与えてくれるのは、何からきてるのかが少しわかってきたかもしれません。

リースは永遠という意味をもちます。
私は終わりのない循環、ととらえてます。

 

土から栄養を与えられて、最後はおかえしして循環を絶やさない。そんなイメージです。